2023/09/12 00:30

TCV(チベット子ども村学校)のあるダラムサラは標高約2千メートル、寒さが厳しくなる12月半ばから2月末まで長い冬休みとなる。しかし、インドに身寄りがなく、行く先のない子どもはその間も寮で過ごす。私もその一人で、冬休みが始まる日は、家に帰る準備でそわそわする子や、いつもは賑やかな寮が空っぽになっていくのを見ているのが嫌だったので、朝から花壇に入れる肥料を採りに山へ行って気を紛らわせた。普段は30人以上が暮らす寮に残るのは5、6人で、残った者の特権とばかりに空いたマッ トレスや毛布を何枚も重ねて寝床をフワフワにして寝たりして結構楽しんでいた。みんなが居なくなった寂しさもすぐに薄れていき、伝統楽器の練習に打ち込んだり、様々なことを休みの間に学ぶことができたのは大きな収穫だった。そのおかげで、チベットの弦楽器ダムニェンを習い始めて数年後には自分が教える側になり、年に一度のリンカ (学校創立祭)や、グループに分かれて歌や演奏を競う音楽大会などでは毎年演奏していた。 


冬休みの間、チベットに住む親が子どもに会うために訪ねてくることもあった。年配者がネパールなどへ短期間巡礼に行くという場合には、チベットから出る許可が比較的下りやすい。中学2年ごろ、チベットから来た友人の母親 に「お母さんが恋しい?」と訊かれた私は「全然恋しくなんかない」と答えて、「自分の母親にそんなこと言うもんじゃない!」とひどく怒られたが、本心では自分の両親はなぜ会いに来てくれないのだろう、と腹を立てる気持ちがあった。私と同じような境遇の子どもたちは、表面的には明るくしていても、 凍らせてしまった感情を心の奥底にずっと持ち続けている。後で知ったことだが、 私の両親はインドに来ることを試みていたが、母が病気になり、それは叶わず終わってしまった。私が高校3年ごろ、母は病気で亡くなったことを1年後に兄からの手紙で知った。菩薩様のような優しい心の持ち主であった母を失くした家族の悲しみは深く、私にもすぐに伝えられずにいたという。


私は家族と一緒に暮らす機会には恵まれなかったが、TCVで過ごした12年間はとても充実し、楽しかった記憶が大半を占めている。難民という制限された立場ではあるものの、チベットで行われている信仰や言論の弾圧もない環境で育つことができたのはやはり幸運だったと思う。そして、チベットにいる人々が一目会うことを切望するダライ・ ラマ法王がすぐ側に居られ、直に教えを聞くこともできる。チベットから出ることが難しい人々にすれば羨ましい環境だ。 どちらが幸運とも不幸とも言えないが、自由のある国であれば起こる必要のない家族の別離や悲劇がチベット人には沢山あることだけは確かだ。


チベットの将来を担う子どもたちを預かるTCVの熱心な教育と手厚いケアの賜物で、TCVの学生はどこへ行っても困らないだけの素養が身についている。チベット語、英語、ヒンディー 語をはじめとし、チベットの文化、音楽、仏教などの教科、自主性を育てる様々な部活動があり、TCVのモットーである「自分より他者のために」という精神、目上の人を敬うこと、ゴミを拾う習慣までも学ぶ。寮生活はさながら大きな家族で、寮母、寮父、4、5歳くらいの小さい子から中学3年生までが一緒に暮らすため、年長者が小さい子の面倒を見たり、自然に他者との協調性を学ぶ。朝昼晩の食事の用意も当番制で子どもたちが担当する。当番は2人で、寮全員の食事を準備するのはなかなかの重労働だが、子どもなのでトラブルも付き物だ。 


私が当番の時、蒸しパンを大きな蒸し器で蒸していて、なぜだか急に洗濯がしたくなり、寮の外で洗濯をしている間に蒸し器の水が全部なくなってしまい、長時間熱された アルミ製の蒸し器の底は溶けてポタポタと垂れ、大きな穴が開いていた......。蒸しパンは石のように堅くなり、寮母にこっぴどく叱られた。洗濯をしている私の所に小さい子が「お兄ちゃん、寮がすごく暑くなってる」と言いに来ていたが、洗濯に没頭していたため気にも留めなかった。罰として私の当番は1週間延長された。大きな穴の開いた蒸し器は修繕されて今も寮にあり、卒業生の〇〇が開けた穴 だよ、と語り継がれている(らしい) 。


つづく

 ゲニェン・テンジン 聞き書き/ 柳田祥子



リンカ(TCV 創立祭)で 演奏する筆者