2023/09/12 00:45

 今思い返してみると、中学3年ごろは経済的なバック アップも何もない自分の境遇に、改めて不安を募らせていた時期だった。人から与えてもらうのを待つしかない、貧しいことが恥ずかしく思えた。必要最低限の服などは寮母や教師に言えば貰えただろうし、気にかけてくれる同級生もいたのだが、貰うことすら恥ずかしく、破れた靴を履き続けていた。それを遠慮なく言える家族がいないことが寂しかった。 


 高校1年からは、それまで過ごしていたホームと呼ばれる寮から男子寮と女子寮に分けられる。3、4人に1部屋が割り当てられ、ルームメイトは自分たちで選ぶことができる。私は寮母が厳しかったホームでの生活からやっと解放され、初めての自由を味わっていた。服などはルームメイトからいつでも気兼ねなく借りられ、惨めな気持ちを味わわずに済んだ。チベット人、特に男子学生は頻繁に物の貸し借りをするが、執着がないのか無頓着なのか、持ち主の元に返ってこないことがよくある。アメリカに移住した元デスクメイトが私に送ってくれたジャンスポーツのリュック ( 皆が憧れる ) は、瞬く間に友人の手に渡り、友人がネパールまで持って行き、そこからまた誰かの手に渡って消息不明となった。何でも共有するのが当たり前の集団生活では、自分のもの、他人のものという境界も機能しない。歯ブラシ、靴下、靴の紐まで持っていくヤツがいて、最も悔しいのは、明日履くつもりで干しておいた靴下がなくなることだ。犯人は靴下を洗うのが面倒で、脱いだ靴下もどこかへ隠してしまう。後日、自分のベッドを掃除していたら、マットレスの下から汚れた靴下が沢山出てき てなんとも腹が立った。 


 TCV(チベット子ども村学校)では勉強の他に、マナーや清潔さも評価される。私は厳しい寮母の躾のおかげか、 ベストマナー賞を貰ったことがある。なかには授業をサボり、街へ遊びに行く学生もいる。TCVは山の中の広大な敷地にあり、目立たず抜け出すには山を越えなくてはならない。見つからずに抜けだしたはずが翌日、寮長に呼び止められ「昨日、山道で君を見たような気がしたが、違うね?」と。

すべてお見通しなのだった。見つかれば罰則が課せられる。罰則は独特なものもある。石を渡され「これと同じ石を探せ」というものなど、簡単そうに見えて一日中探しても見つからず頭を抱えることになる。南インドにある分校の教師は、ヤシの木に登り実を盗った学生に、毎日木に向かって五体投地 ( 体を地面につけるチベットの祈り方 ) をさせたりと、罰則も独創性に富んでいる。 


 私は卒業までの3年間、音楽好きな親友たちと思う存分部活動に励んだ。しかしそれが過ぎて成績がぐーんと落ち、 卒業試験で化学が不合格となって、半年後の再試験までの間、卒業生用の部屋に住み勉強をすることになった。部屋は空きがあればいつでも誰でも使用できる。寄宿学校を出た後、帰る家のないチベット難民の学生たちのためだ。私を含めそういった学生たちにとって、12年近くを過ごしたTCVは紛れもない家であり、帰る場所である。 


 チベットへ帰りたい想いを募らせ、学校を脱走する学生もいる。そんな場合にもTCVは対応に慣れていて、駅など学生が立ち寄るであろう場所に連絡を回し、そこで学生を捉まえて学校に連れ戻す。チベットへ帰ろうとしても、亡命者が簡単に入れる訳もなく、運が悪ければ投獄されたりと危険が多いからだ。 


 素行の良くない学生に教師たちは特別に目をかけ、家に呼んでご飯を食べさせたりして親身に接する。その結果、その教師にだけは信頼を置き、心を開く学生もいる。進学を希望しない場合は、卒業を待たずに職業訓練校に入ることもでき、縫製や木工、製パンなどの製造技術、美容師、ホテル業務など、就職に必要な訓練を受けられる。 国という基盤がないチベットの亡命社会にとって、未来を担う人材は何よりも重要な財産と考えるからこそ、TCVの教育に対する尽力は惜しみなく、徹底されている。


 高校2年からは専攻によってインド各地の分校へ転校となるが、私は不慣れで頼るあてもない土地に行くのが不安だったのもあり、今までと同じダラムサラで勉強を続けられる理系を専攻した。再試験までの勉強中、私は進路を決めかねていたが、周りの人々のアドバイスで理学療法を選ぶことにした。理学療法は当時専攻する学生が少なく、私の成績も考慮され、特別に全額奨学金が下りることになった。


 進路も決まり、なんとしても卒業試験に合格しなければと思い、シュリーナガルで医大生をしている友人の部屋に1カ月缶詰めとなり猛勉強した。それが功を奏し無事に合格。そしていよいよ、TCVを去る時がやって来た。