2023/09/12 16:53

インドに亡命してから12年間近くを過ごしたTCV (チベット子ども村)を無事卒業した私は、大学を探すため北インドのダラムサラからデリーまで夜行バスで1晩、さらにデリーから列車で2晩かけて南インドの中心都市バンガロールへ向かった。南インドには評判の良い医学大学が多数ある。大学を探すチベット人学生のために、インド各地には世話役のネットワークがあり、泊まる場所や情報を提供してくれた。私は目星をつけた大学のあるマンガロールへ移動し、TCVの先輩の世話役の家に泊まって大学の評判や行き方などを案内してもらい心強かった。

マンガロールはカルナータカ州にあるアラビア海に面した小さな都市だ。都会では勉強に集中できないと聞いた私は、マンガロールの都市部よりバスで30分程の娯楽施設も何もない田舎町にあるアルバズカレッジに入ることにした。新設されたばかりで学費も安く、私を含む6人のチベット人が理学療法科に入学した。教授やクラスメイトはインド人ばかりだったが、すぐに仲良くなった。気候は非常に蒸し暑い。南インド料理は辛くて酸っぱく、米粒は大きく、最初は苦労したが徐々に慣れ、苦手だった魚も美味しく感じられるようになった。南インドはフルーツが豊富で、毎朝ジュース屋さんに寄ってマンゴーやパパイヤなどのフレッシュジュースを飲むのが楽しみだった。その美味しさは今でも忘れられない。

インド人の学生たちは真面目に勉強していたが、チベット人はといえば普段はのんびり遊んでいて、試験の前に猛勉強して取り戻すというスタイルだった。1年生の最終試験に私だけ落ちたこと以外は順調で楽しい大学生活だった。 3年生になるとクリニックでの実習が始まり、リハビリの指導や治療をするようになった。交通事故でほとんど動くことができなかった患者が数カ月のリハビリで歩けるようになった時は、とてもやり甲斐のある仕事だと感じた。

ティーチャーズデイ( 先生への感謝の日 ) にチベットの伝統楽器ダムニェンを弾いたのがきっかけで、大学代表としてケララ州の文化交流イベントに出演し、地元紙に写真入りで掲載されたこともあった。衣装はチベットではなくインドの民族衣装だったけれど。

私は大学2年生だった2006年1月、アーンドラ・プラデーシュ州アマラヴァティで開催されたカーラチャクラ灌頂(かんじょう)に参加した。チベット密教の奥義をダライ・ラマ法王から授かる貴重な機会を得ようと世界各国から約10万人が参加した大イベントだ。私はそこでチベットから来た叔父と会い、家族からの手紙を渡された。手紙には1年前に母が病気で亡くなったこと、私が卒業試験の時期だったため勉強に差し障りが出ると思い、すぐに知らせることが出来なかったと書かれていた。私は手紙を3回読み、ひとしきり泣いて、寺院に供養の灯明を頼みに行った。母は亡くなる間際に私のことを気にかけていたという。私は母に会うことも看病してあげることも叶わなかった。亡命したチベット人の多くが、遠く離れた家族との死別を、自分の無力さに苛まれながら運命として受け入れるより他ない。 

叔父は私の幼い頃のエピソードを話してくれた。兄のいる僧院で修行していた私の所に叔父が訪ねて行った時のこと。私は僧坊で経典を覚えるだけの毎日に退屈しきっていたのだろう。帰ろうとする叔父を引き止めるためバター茶を作ろうとしたが、なかなか火が起こせない。自転車のタイヤの空気入れを持ってきて、ポンプで薪に風を送って僧坊を煙と灰だらけにし、見かねた叔父がお茶はいらないよと止める中、お茶とバターを攪拌するドンモという筒状の容器が子供には大きいため、机の上に登って必死にかき混ぜる姿に大笑いしたそうだ。大騒ぎの後、叔父は無事に熱いお茶を飲むことができたという。

北京オリンピックが開催された2008年はチベットにとって大きな受難の年となった。1959年のチベット蜂起から49年目に当たる2008年3月10日にラサで行われた平和的なデモが発端となり、その一部が暴動と化し、チベット全土に広がる大規模な抗議運動が起こった。多くの死傷者が出て、痛ましい犠牲者の写真がチベット内の人々の命がけの行動により国外へ流 出した。抗議運動は聖火リレーとともに世界へと広まった が、中国当局の武力による制圧と徹底した情報封鎖により、世界の目はチベットから離れていった。

 チベットでの弾圧は2008年以降、さらに過酷なものとなった。

続く