2024/05/23 14:01

短い間ではあったが、24年ぶりにチベットへ帰郷し、家族との再会を終えて日本へ戻ってきた私は、今まで胸の奥にあった詰まりが取れたようにすっきりとした気分だった。 


近年はチベット人が欧米に亡命し国籍を取得したとしても、チベットへのビザは容易には下りなくなっている。私はそれを知らずに日本に来たけれど、本当に幸運だったと思う。


日本に来て最初は、東京の日本語学校に2年間通った。この学校には以前チベット人が通っていたこともあり、先生たちはチベットのことを理解していて、私をチベット人として扱ってくれたのが嬉しかった。学生の中では韓国人が一番多く、チベットのことを知っている学生もいて、すぐに仲良くなった。


教室でそれぞれが自己紹介をする時、「チベット」というと韓国人や他の国の学生は分かるけれど、中国人には「西蔵(シーツァン-チベット地域の中国名)」と言わなければ分からない。彼らの認識は西蔵といえば中国の一部で、私も中国語が喋れると思い、嬉しそうに中国語で話しかけられて複雑な気分だった。動物を題材にして文章を作る授業では、私が「パンダのうちはチベットです」と言うと、中国人の学生が「中国! 中国!」と言って少し気まずい雰囲気になった。ある時は長期の休みを前に学生たちが里帰りの話をしていた。中国人の学生が私に「あなたは国へ帰らないの?」と訊いたので、私は「あなたの国のせいで帰れないんだよ」と言いたくなるのを堪えた。


彼らは私たちチベット人がどんな思いをしているか全く知らず、ただ無邪気なのだった。そういう時は悔しいこともあるけれど、ダライ・ラマ法王が常々仰っている「中国人と一番仲良くすることが大事。彼らも真実を知れば味方になってくれる」という言葉を思い出し、仲良くすることに努めていた。彼らも真実を知る機会を奪われている犠牲者だと思う。


日本語学校に通った2年間は今までの学生生活の中で一番真剣に勉強した。韓国や中国と違い、母語が非漢字圏の私は、漢字の読み書きは0からのスタートだったが、遅れを取るまいと猛勉強した甲斐あって上達は早かった。難関の日本語能力試験1級は、3回目でやっと合格することができた。


在学中に東日本大震災が起こり、私は初めて大きな地震を経験した。学校がある新宿の高層ビルは軟体のように大きく揺れ、電車は止まり、都市の機能が全て麻痺するのを目の当たりにした。大都市の危うさを知り、私と妻はここでずっと暮らすことはできないと思うようになった。そんな時、友人に誘われて長野で開催されたお祭りに参加したのが、松本への移住へのきっかけとなった。2012年の「ちいさないのちの祭り」にはこれまで私が出会ったことのない、ヒッピーや、それぞれに個性的で自由で面白い人々が集まっていた。ふんどし姿で踊ったり、裸で走り回る子供や、思い思いのスタイルで手作りの物や古着など出店ブースを出す光景は、それまで知っていた日本の都会のイメージからは想像もつかない別世界で、私は逆カルチャーショックを受けた。その後に訪れた大鹿村の友人たちの家では、囲炉裏で火を囲んだり、薪を使って料理したりお風呂を沸かしたり、山や川で遊んだりと、私が小さい頃チベットで慣れ親しんだ生活に近かった。懐かしい気持ちになり、私もこういう暮らしがしたい、と思った。それに都会のハイテクな生活とは違って、これなら私もやり方を知っているという安心感があった。長野は山に囲まれ、きれいな空気、水、美味しい食べ物があり、自然に近い暮らしができる。何より自由に伸び伸びとした、こちらの生き方の方が断然楽しい、と感じて移住を決意した。

ちなみにその時、お祭りに初参加だったにも関わらず、私と妻と友人はチベットの代表的な料理・モモを出店したのだった。出店自体も初めてのことだった。小さいけれどチベット人として、チベットを知ってもらうきっかけになればと思った。モモは大好評だったのだけど、段取りも何も慣れていなかったため、4日間モモを作り続けて疲労困憊した。だがその甲斐あってか、自分でもびっくりするような美味しいモモができたのだった。その後もその味はなかなか再現できない。